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東京地方裁判所 昭和26年(ワ)7290号 判決

原告

宝永汽船株式会社

被告

滝内進

主文

被告は、原告に対し、金二十五万円及びこれに対する昭和二十六年十二月六日以降完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを三分し、その二を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

この判決は、原告勝訴の部分に限り、原告において金八万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。

事実

(省略)

理由

一、原告が海運業その他を営む会社であり、被告が漁獲販売業者であることは当事者間に争がない。

二、先ず、本件船舶衝突事故発生の有無について判断するに、各成立に争のない甲第一号証、同第九号証、同第十一号証の一乃至四、乙第一号証、同第七乃至第二十一号証、並びに証人南保久作、同滝内トシ、同田村清蔵の各証言を綜合すれば、次のような事実が認められる。すなわち、「原告の所有船朝日丸(船長南保久作)は、昭和二十六年二月二十三日セメント約三百三十屯を積載して、八戸港を出港し、横須賀港に向け航行の途中、同月二十五日暴風雨に逢い続航の見込がたゝなかつたため小名浜港に避泊し、天候の回復を待機していたものであるが、同年三月三日同港内の内防波提北西端から南西約百米の地点に船首を北西に向けて停泊し、夜間に入り同船後部の船橋前面に接した後檣上に甲板上から約六米の高さに油船燈(停泊燈)一個を掲げていたところ、同日午後八時頃同船の、後部船橋右舷寄りで当直していた甲板長小江畑秀夫が朝日丸の左舷正横からやゝ後方約三百米の地点に他船(後に第七八崎丸と判明)の白燈及び両舷燈を認め、その後、同船が本船に向つて近寄り、両船間の距離が約百五十米になつても転舵する様子がないので、不審に思い、同船に向い大声で注意を喚起したが、同船はそのまゝ近接し、遂に朝日丸の左舷船首部に後方から約三十度の角度で衝突した。ところで右第七八崎丸は、茨城県久慈東方二十海里附近において、底引網漁業に従事し、同日さめ約三百貫の漁獲を得て帰途につき小名浜港内魚市場岸壁に向うべく同港外防波堤燈台にさしかゝつたところ、一同船々長滝内敏一は、いつもならば同燈台通過後直ちに内防波堤北西端に向首するほぼ北東の針路をとるのであつたが、当時同燈台の前方北東の方向に総屯数約五百屯の汽船が停泊しており他にもその附近に停泊船が三、四隻認められので、同燈台を通過してから船首を少しく右転して、一且東北東の方向に進航し、右停泊汽船等を左舷側にかわして後、船首を内防波堤北西に向け機関を微速力(約二、三節)前進とし、その後間もなく、船首の方向、内防波堤北西端の近くに他船(後に朝日丸と判明)のぼんやりとした黒影を認めたが、同防波堤北西部は駆逐艦を利用して造られたもので、これと停泊船との判別が困難な状況にあつたしし、また、第七八崎丸から内防波堤北西部を見とおすあたりにみえる魚市場附近の明るい屋外燈に眩惑されて、朝日丸の停泊燈をはつきりと認識し得ないまゝおそらく内防波堤の内側の岸壁寄りに停泊中の船であらうと考えて、そのまゝ続航したところ聞もなく、第七八崎丸はそのほぼ正船首の方向に朝日丸の停泊燈一個を認めて内防波堤の外側に停泊している船であることを知り、機関を停止したが、同燈に向首したまゝ惰力で進航し、朝日丸の現状を十分に見極めないうちに同船に著しく接近した。しかし船首の見張人が『取舵』と叫んだのを聞き、朝日丸の船首を無事にかわし得る見込で、再び機関を微速力前進とし、取舵一杯にとつたところ、朝日丸の停泊燈から船首までが意外に長く、同船をかわしきれず、同日午後八時十五分頃第七八崎丸の船首がほぼ北に向いたとき朝日丸と前記のように衝突した。衝突後、第七八崎丸は、微速力前進のまゝ朝日丸の船首を右舷側にかわしそのまゝ続行して、予定どおり魚市場岸壁に係留した。」

以上のとおりの認定がなされる次第であつて、証人滝内敏一、同田村清蔵の各証言中右認定に反する供述部分は措信し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。しからば、朝日丸と第七八崎丸との間には原告主張のような衝突があつたと認定するに妨げない。

三、次に、本件衝突によつて朝日丸に原告主張のような損傷が発生したかどうかについて考えてみるに、当時朝日丸がその船体に原告主張のような損傷を蒙つたことは各成立に争のない甲第一号証、同第四号証の記載に徴して明かであり、更に各成立に争のない甲第七号証の一乃至三、同第十一号証の一乃至四、乙第十三号証、同第十六乃至第二十号証に証人南保久作、同滝内敏一、同滝内トシの各証言を綜合すれば、次のような事実が認められる。

(一)  本件衝突直後、朝日丸の甲板にいた甲板長の小江畑秀夫は同船の左舷船首部に大きな凹傷及び破孔等のあるのを発見し、船長南保久作に報告したので、船長南保久作及び一等航海士坂井誠一等がその損傷の部位の程度を調査したうえ、当夜本件衝突の相手船をさがし求めたところ、第七八崎丸の船首の鉄板が二、三粍めくれているほか、同船右舷引込アンカー附近その他に擦過傷があつたことや、同船乗組員からの聞込み等により、本件衝突の相手船が第七八崎丸であることをつきとめ、同船々長滝内敏一の住居をさがしあて、更に重ねて前記損傷箇所を正確に測定したうえ、翌三月四日第七八崎丸との衝突現認証明願(甲第二号証)を作成して、右滝内敏一方におもむき、同人から証明を受けようとしたが、同人不在のため、事情を告げて、同人の代わりに、同人の妻滝内トシから右滝内敏一名義の証明及び記名捺印を受け、滝内トシにその写一部を交付する等の処置をとつていること。

(二)  右南保久作は、本件衝突事故発生当時、所轄の小名浜海上保安署には第七八崎丸との衝突について海難報告書を提出しなかつたが、目的港である横須賀の第三管区海上保安部横須賀警備救難署には原告主張のような損傷を記載した船体損傷報告書(甲第一号証)を提出していること。而して、南保久作が、小名浜海上保安署に海難報告書を提出しなかつたのは、本件事故発生当日が三月三日土曜日であつて、日曜日には海難報告書は受理されない旨の乗組員の報告を軽信したほか、第七八崎丸側からは同船長の記名捺印のある衝突現認証明書を受け取つていることではあるし、更に、ラジオの気象通報によれば、二、三日後には大時化が再来するとのことで、一日でも無駄に船を停止させることはそれだけ損害を多くするので、急遽出航する必要があつたこと等を考慮したことによるものであること。

(三)  本件衝突事故発生前、昭和二十六年三月一日、朝日丸が小名浜港内に暴風雨を避難中、同じく避泊中の第二十八日宝丸との間に同港内において接触事故を起し、相手船たる第二十八日宝丸に損傷を生ぜしめた事があり、その接触箇所は、最初誤つて第二十八日宝九の右舷、朝日丸の左舷と海難報告書(甲第七号証の一)に記載されたが、後に第二十八日宝丸船長の証明(甲第七号証の三)により、同船の左舷、朝日丸の右舷と右誤りが訂正され、右接触箇所は朝日丸の右舷であつたことが明かにされたのみならず、第二十八日宝丸との接触によつては、朝日丸は別段の損傷を受けておらず他に当時、朝日丸が損傷を蒙つたと思われるような海難事故の発生は認められないこと。

(四)  機船朝日丸は、鋼船(総屯数二八三屯九三)ではあるが、昭和九年八月進水の船で、本件衝突当時、すでに約十六年も経過している船であるのみならず、衝突箇所である左舷鋼板の厚さは約六粍程度のものであつたのに反し、機附帆船第七八崎丸は、木造船(総屯数七六屯三〇)とはいゝながら、昭和二十二年七月進水の船で、その船首は曲線状船首材で欅を材料として、二材を以て構成され、船首材上端から竜骨下部までは垂直距離にして五米四糎、前後幅は二十一糎で、しかも船首材上端より三米三十二糎の所から竜骨連結部の後方までは厚さ六粍、前面の幅十二糎、前後の幅十一糎の鋼製の細長い凹型のステムバンドが、その上方には一米三十二糎の長さにおいて、前面のみではあるが鋼製のステムバンドが、それぞれ張られていたもので、本件衝突時における両船の水面から甲板までの高さは殆ど同じ位であつたのであるから、このような両船の状態において、第七八崎丸(当時さめ約三百貫積載)が理由二において認定したように停泊中の朝日丸(当時セメント約三百三十屯積載)の左舷船首部に約二、三節の速力で後方から約三十度の角度を以つて衝突したとすれば、第七八崎丸の総屯数は七六屯三〇であるとしても、同船々首にその殆ど全部の重量がかゝることになり、この力を以て朝日丸の左舷船首部に衝突したことになるから衝突した第七八崎丸に擦過傷のほか格別の損傷がなかつたとしても、衝突された朝日丸に原告主張のような損傷の生ずることは、常識上はもとより物理学上も決して不可能とはいえないこと。

以上のような認定がなされる次第であつて、右認定の各事実に前掲各証拠を併せ考えれば、朝日丸は本件衝突により原告主張のような損傷を蒙つたものと断ずるにはゞからず、証人滝内敏一、同岩田薰、同田島繁夫、同田村清蔵の各証言中右認定に反する供述部分は措信し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

四、そこで、進んで本件衝突について第七八崎丸船長滝内敏一に過失があつたかどうかについて考えてみる。本件衝突の前後における経過は理由二において認定したとおりであるが、そもそも夜間船舶が港内を航行中、前方ほぼ正船首の方向に停泊中の船舶らしい黒影を認めた場合、航行中の船舶の船長たる者は、これを十分に確認し、右停泊船との距離を十分に保つて航過し得るよう操船し以て衝突を未然に防止すべき運航に関する職務上の注意義務があることはいうまでもないところであるから、右滝内敏一が前方ほぼ正船首の方向に停泊中の朝日丸の黒影を認めながらその現状を十分に見極めないまま漫然と進航し著しく接近した後に航過しようとしたことは到底同人の過失たるを免れ得ない。

五、被告は慣習の存在を前提として本件衝突による損傷を賠償する義務はない旨主張するが、被告主張のような慣習の存在についてこれを認めるに足る証拠はないのみならず、証人岩田薰、同田島繁夫、同滝内敏一の各証言によつても、朝日丸の当時の小名浜港内における停泊地点が通常同港内船舶の出入する場合の通路に当つていたことを認め得るに止まり、同港内には特別に定められた停泊禁止区域はなかつたことが認められるから、右被告の主張は理由がない。

六、次に原告が朝日丸、被告が第七八崎丸の各所有者であることは当事者間に争がなく、しかも、本件衝突事故は、前記認定のように、第七八崎丸が被告の事業たる底引網漁業に従事し、その帰途中の事故であるから、同船々長滝内敏一がその職務を行うにあたり発生せしめたものであることが明らかであり、従つて、第七八崎丸の所有者である被告は本件衝突事故により原告の蒙つた損害を賠償する義務があるものといわなければならない。

七、そこで原告の蒙つた損害の額について考えてみる。成立に争のない甲第四号証、証人永田央の証言により各真正に成立したものと認められる。同第三号証の一、二、同第五、六号証及び証人永田央の証言を綜合すれば、原告は、朝日丸の損傷箇所を広島県瀬戸田造船株式会社において修理したのであるが、その修理費用と日本海事協会の就航適格証を得るための修理完了認定の鑑定料とを合わせ合計金十八万五千六百十円を右造船会社に支弁したこと、原告は海運業者として当時訴外東洋海運株式会社との間に定期傭船契約を結んでいたが、朝日丸が右損傷箇所を修理するための期間、すなわち、昭和二十六年七月二日午後三時三十分から同月八日午後三時に至るまでの間傭船を継続することができなかつたので、傭船者訴外東洋海運株式会社から右契約に基く所謂オフハイヤー条項により右期間の傭船料等合計金十九万二千五百七十九円六十一銭を控除され、よつて、原告は、本件衝突により同額の得べかりし利益を喪失したことが認められる。従つて、原告は、本件衝突事故により、以上合計金三十七万八千百八十九円六十一銭に相当する損害を蒙つたものといゝ得る。

八、最後に被告から過失相殺の主張があるのでこの点について判断する。

各成立に争のない甲第十一号証の一、乙第十六乃至第十九号証、証人南保久作、同滝内敏一の各証言に理由二記載の認定事実を併せ考えると、朝日丸は当夜停泊燈として乙種停泊燈(油船燈)一個を、同船後部の船橋前面に接した後檣上に甲板上から約六米の高さに掲げていたものであるが、その明るさは同港魚市場附近の屋外燈より弱く、必ずしも明瞭であるとはいゝ難く、そのため、前記認定のように第七八崎丸船長滝内敏一の避航措置の過誤を誘発し、同船長の前記過失と相俟つて本件衝突事故を発生せしめたものと認められる。してみると、朝日丸船長南保久作は海上衝突予防法第十一条第一項の規定する「夜間停泊船は、同船の前部で最も見えやすい場所に、少くとも二海里離れた周囲から視認される明瞭な白燈一個を掲げ、」以て、衝突を未然に防止すべき職務上の注意義務を怠り、その過失により本件衝突事故の発生に加功したものというべく、しかもその加功の程度は相当大なるものがあると認められるから、右南保久作の過失を斟酌すれば、被告の損害賠償額は相当にこれを減額するのを妥当とすべくしかるときは右賠償額は金二十五万円に減ずるのを相当とする。

九、しからば、原告の本訴請求中、被告に対し、右認定の額及びこれに対する訴状送達の日の翌日であること本件記録に徴して明かなる昭和二十六年十二月六日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金(本件は不法行為を原因とするものであるから年六分の利率は許されない。)の支払を求める部分は正当として認容すべきも、その余は失当として棄却を免れない。よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十二条、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 古山宏 市川郁雄 立原〓昭)

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